新・花鳥風月

@mitchan5のブログです。

1995年1月17日の出来事

去年の今日、1995年1月17日の出来事についてツイートした内容を一部加筆修正してまとめて記しておきます。

 
1995年1月17日午前5:46。地鳴りとP波で目が覚めた直後にS波の巨大なゆれ。布団の上には棚からCDや本が雨のように降ってきました。今まで経験したことのないような大揺れ。机の上からはPC-9801用の重いCRTディスプレイが頭上に倒れてきましたがRGBケーブルが引っかかって間一髪直撃は免れました。

その日、金型の納期に終われていたので父は会社に泊まり込んで仕事をしていました。おばあちゃんは体調を崩して近くの病院に入院中。自宅にはおじいちゃんと母、妹二人と私がいました。物が散乱した二階にいた私とおじいちゃんは倒れてきた物にも当たらず無事でした。

ブレーカーが飛んでしまって真っ暗な中、階下から上の妹が「おにいちゃーーん!」と大声で私を呼んでいました。手探りで懐中電灯をさがし慌てて一階に下りると母と下の妹が倒れてきた和箪笥の下敷きになっていました。慌てて箪笥の下から救出しましたが幸にも怪我はありませんでした。ブレーカーを入れたら電気が復旧しました。

(電子レンジの台が揺れてコンセントに無理な力がかかりがショートしたためブレーカーが落ちてました。コンセントはすぐに抜きました)

自宅内を調べてみるとテレビやLDデッキ、ビデオデッキ、PCディスプレイ、本やCD、置物が床に落ちていましたが食器類は揺れと直角に食器棚が配置してあったため無事でした。箪笥も母と妹の上に倒れてきたもの以外は無事でした。外に出て調べると家の外壁に十数カ所ひび割れが入っていましたが周辺の家共々、大きな余震がない限り倒壊の危険性はないと感じました。

後日調べると屋根瓦があちこちでずれてしまっていて雨の日に雨漏りが発生したのですが、震災当日には気がつきませんでした。家から300mほど離れたところでは2mほどのブロック塀が10メートルくらいの範囲で倒壊していましたが、それ以外、ご近所では家屋の倒壊は見受けられませんでした。

(同じ豊中市内でも自宅から3キロほど南の庄内地区では全壊などの甚大な被害が出ました)

地震直後、電話は通話可能でしたので父のいる会社に電話をかけましたが会社は停電していたのでビジネスホンにはかかりませんでした。家の安全を確認したので大急ぎで着替えてスクーターでおばあちゃんが入院している病院へ。病院へ向かう途中の信号機は停電のため止まっていました。

家からスクーターで3分のところにある病院に着くとあちらこちらから手や頭に怪我をした人が集まってきてました。病院は震災の直前に竣工したばかりの新しい建物だったのでまったく被害はなくおばあちゃんと無事面会できました。地震の時おばあちゃんはトイレに行こうと起きたところであわててベッドの下に逃げ込んだそうです。

おばあちゃんの無事を確認後、急いで会社に向かいました。阪神高速空港線の下の道との交差点では信号が消えていて横断するのに時間がかかりました。会社に着いたら父が床一面にこぼれた大量の灯油を掃除していました。地震の瞬間、大音響と共に棚の上からいろんな物が落ちてきたので鉄製の工具棚の中に頭だけつっこんで震えながら耐えたそうです。

夜中、父は寒かったのでストーブと灯油入りポリタンクを足下に置いて仕事をしていたそうです。揺れがおさまったあと停電でまっくらだったので手元のライターを照明代わりにつけたそうです。そこではじめて足下のポリタンクが倒れて灯油が一面にばらまかれているのを見て慌ててライターの火をを消したそうです

会社は伊丹市にあるので家より被害がありました。会社から1キロほど離れたところにある阪急の伊丹駅は駅舎が倒壊して警察官の方がお亡くなりになりました。会社の建物は鉄骨スレート葺きでしたので倒壊はしませんでしたが壁には無数のひび割れが。何トンもある機械が数十センチ移動していました。

現場にある棚や引き出しはほとんどすべて転倒して中身が散乱していました。二階事務所にあがってみるとさらに悲惨な状況に。ロッカーはすべて倒れてコピー機はとんでもないところに転がっていました。食堂では食器棚が倒れて辺り一面に醤油とソースがこぼれていました。足の踏み場がない状況でした。

不思議なことにPC-9801のCADシステム2台はまったく何事もなかったようにいつもの場所にいつものように存在してました。大きな余震が続く中、現状確認をしていると始業時間前後に数名の社員が出社してきました。ほとんどが大阪府内に住んでいる人で兵庫県内在住の人は出社することができませんでした。

はっきりとは覚えていませんがたぶん当日中に会社も電気が復旧しました。余震の続く中、社内の復旧をしながら出社してこない社員の安否確認をしました。3名とは連絡が付き、家屋が一部倒壊したものの大きな怪我もないとわかりましたが西宮在住の藤田さんとは数日の間連絡が付きませんでした。

あとから聞いた話では藤田さんは玄関を開けたとき見えた光景が前日のものとまったく違っていることに驚愕したそうです。「うちの部屋ってこんなに高い所にあったのか」と言うのが第一印象、まわりのマンションがほぼ倒壊して自宅マンションだけが生き残っていたそうです。藤田さんの一家も人的被害はなかったそうですが電話の不通で会社に連絡する手段がなかったそうです。

そんな中、得意先の人がかろうじて稼働していた交通機関と徒歩で会社にやってきました。安否確認と現状確認のあとに「納期を遅らせることは許されないから」と社長に言ったそうです。なので震災翌日から出社できる社員のみで納期に間に合わせるために現場の片付けをしながら仕事を始めました。

水道、電気、電話も復旧し(ガスはプロパンガスでした)震災翌日から通常業務をはじめましたが最初に困ったのがみんなのお昼ごはんでした。給食屋さんが被災して配達ができないと言うことでホカ弁屋さんに出勤している社員みんな分のお弁当を買いに行ったのですが長蛇の列でした。

私と母と妹でホカ弁屋さんの列に30分くらい並び、やっと順番が来たのでから揚げ弁当を8個注文しました。すると後ろに並んでいた人から「こら!買い占めるな!」と怒声が響きました。社員分の数であることを説明しましたが納得はしてもらえなかったようです。あのときは皆、気が立っていたんだと思います。

そういう給食の無い期間が一月弱ほどありました。あとから知りましたがうちに給食を納入していた給食屋さんの自宅マンションも被災して玄関が開かなかったそうです。地震の数週間後、給食屋さんの自宅の隣の部屋の方が家具の下敷きになって亡くなっているのが発見されたそうです。

地震の当日、とりあえず会社内を片付けられるところだけ片付けて、家の片付けをするため早めに帰宅しました。帰ってすぐ近くのマンション最上階に妹と昇ってみました。西の方を見るとあちこちから黒い煙が立ち上っていました。あの光景は今でも目に焼き付いています。「恐怖の大王が来るにはまだ4年もあるはず…」と心の中でつぶやきました。

当時下の妹は神戸の介護の専門学校に通っていました。地震が早朝だったため無事でしたが日中に地震が発生していたらがれきの中を神戸まで妹を探しに行かなければならないところでした。震災後、妹の通っていた介護の専門学校は約半年、休校したままでした。そのため妹は介護の資格を得られませんでした

とてもありがたかったのは取引先の皆さんから支援物資をいただいたことです。飲料水や食糧、急救セットなど。工作機械メーカーの牧野フライスさんには機械のレベル出し作業を迅速に対応していただけて業務への被害は最小限にすることができました。励ましの電話や手紙もたくさんいただきました。

自宅の方は火災保険に地震オプションを付けていたので補修費用のほとんどをそれでまかなうことができました。大震災以降、火災保険に地震オプションを付ける人や地震保険に新たに加入する人が増えたのも頷けます。会社は借家なので大屋さんにお願いして補修していただきました。

家族、親戚、社員一同、多少の物的被害はありましたが人的被害がなかったと言うことに感謝しています。知り合いの中には何人か怪我をされた方、亡くなった方もいらっしゃいました。それから豊中市を通じて義援金もいただきましたので東日本大震災の時は少額ですがお返しをさせていただきました。

以上、阪神淡路大震災から21年に際して当時の私の周りでの出来事を最近忘れてきていることも多くなってきましたので備忘かたがた、お世話になったみなさまへのお礼まで。